3分で分かるレンブラントの生涯
1607年7月15日、レンブラント・ファン・レインはオランダのレイデンという町の裕福な両親の間に10人兄弟の9番目の息子として誕生しました。14歳のときに画家を目指して修行を始め、18歳になるとレイデンで仲間の画家たちと一緒に工房を開きました。1631年、レンブラントはアムステルダムにアトリエを移すと、翌1632年に「テュルプ博士の解剖学講義」を描き、その名声を揺るぎないものにします。
当時、オランダでは数人で資金を出し合い、一枚の絵に集団で納まる「集団肖像画」が流行っていました。卒業写真のように一様に正面を向いた絵を期待して依頼したであろうアムステルダム外科医ギルドのメンバー7人も出来上がりを見て驚いたことでしょう。特別出演の有名な解剖学者テュルプ博士の溢れる威厳、解剖を見守る彼らの真剣な眼差し、そして生気を失った青白い死体。ドラマ性のあるこの作品はそれまでの集団肖像画の在り方を一変させる画期的なものでした。
28歳になったレンブラントはサスキアという6歳年下の女性と結婚します。幸福な家庭を得て、レンブラントの創作活動はますます力が入ります。サスキアをモデルにした素晴らしい作品も沢山描き、それらは高い値段で売れました。
若く美しい妻と、画家として手に入れた名誉とお金。幸せの絶頂にあったレンブラントの暮らしはどんどん贅沢になりました。世界中の美術品や骨董品を買い漁り、レンブラントは浪費家としても有名になりました。
悲劇は突然やってきました。サスキアとの間に生まれた二人の子どもが幼くして次々に亡くなってしまったのです。1639年、33歳のときに大金を借りて大きな家を買いますが、この家で生まれた3人目の子どもも育ちませんでした。さらに4人目の子どもティトゥスが生まれた翌年には妻のサスキアが病気でこの世を去ってしまいます。
この年、悲しみにくれながらも代表作の一つとなる大作「夜警」を完成させましたが、徐々にレンブレントの人気にも陰りが見え始めます。当時のオランダでは集団肖像画の依頼人が割り勘(Dutch account)で絵の代金を支払うのが一般的であり、光を当てられなかった人たちからは不平や苦情の声が上がったのも一因とされています。さらに、1652年にオランダとイギリスが戦争を始めるとオランダの人々は絵を買うどころではなくなります。ますますお金が入らなくなったレンブラントは借金の取り立てに追われ、1656年、50歳のときに破産します。
1660年、レンブラントは住み慣れた家を売り払い、小さな家に移り、そこで息子ティトゥスと新しい妻ヘンドリッキェ、彼女との間に出来た娘コルネリアと慎ましやかでありながらも幸せな家族生活を過ごします。しかし、それも長くは続きませんでした。3年後にヘンドリッキェが、さらにその5年後にはティトゥスが27歳の若さで亡くなってしまいます。
画家としての人気も落ち、愛する家族を相次いで亡くす中で、レンブラントは一人カンヴァスに向かい、多くの自画像を描きます。レンブレントは自画像を描き続けた画家としても良く知られています。1669年、レンブラントが63歳で亡くなったとき、部屋の画架には未完成の絵が置かれたままだったということです。
※レンブラントの自画像はこちらでも紹介しています。よろしければご覧ください。
おはなし名画の「フェルメールとレンブレント」では17世紀のオランダを代表する二人の画家の人生と43点の名作を、大きくて美しい印刷で楽しみながら、当時のオランダ市民の生活についても知ることができます。
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