3分で分かるコローの生涯
ミーユ・コローはフランス革命の7年後1796年にパリの裕福な家庭に生まれました。
中学校を卒業すると、昼は家業を継ぐための見習いをしながらも、画家になりたいという夢を捨てることができずに、夜は絵の学校に通って熱心に勉強しました。コローが画家になることをお父さんに許されたのは26歳のときです。
29歳のときに長年の念願だったイタリアに行き、31歳のときにローマ郊外で描いた「ナルニの橋」で初めてサロンに入選します。32歳のときにフランスに戻ったコローはフォンテーヌブローにもたびたび出かけ、沢山の風景画を描きました。
サロンに出品した作品は入選を続け、風景画家コローの名前は次第に人々に知られるようになりました。そんなコローをさらに有名にしたのが、1850年、54歳のときに描いた「朝、ニンフの踊り」です。美しい森の中で朝日を浴びて踊る妖精たちが軽やか踊るこの絵は、神話や歴史的背景のある風景画でも、現実をそのまま再現した風景画でもない、現実の風景に想像上の人物を配したコロー独特の風景画です。この絵でコローの画家としての地位は不動のものとなりました。
この絵はフランスの国が買い上げました。
風景画家として知られるコローですが、晩年には人物画も多く残しています。
コローは絵のモデルになってくれる人たちと会話を楽しみながら絵を描くのが好きでした。
モデルが動くことを嫌がる画家が多いですが、コローはモデルが動いても、しゃべっても、歌っても良いと考えていました。
「私の目的は生命を描くことにあるので、モデルたちが動いてくれた方が良いのです」
心が優しく、贅沢もしなかったコローは若い画家たちから「コロー爺さん」と呼ばれて慕われました。自分はだぶだぶの仕事着に皺だらけのズボンをはきながら、いつも困っている人を助けてあげました。ミレーが亡くなったときは、自分も重い病の床にあったにも関わらず、奥さんにお金を送って慰めています。
そんなコローですが、自分は一生を絵に捧げると決めて、誰とも結婚しませんでした。その代わりに自分の描いた絵を「子ども」と呼んでいたそうです。
コローは1875年に78才で、絵を描くことだけに費やした幸せな生涯を終えました。
「コローの心はいつも美しく陽気で、愛が尽きることはなかった。」
パリにあるコローのお墓に刻まれている言葉です。
おはなし名画の「ミレーとコロー」ではミレーの作品26点、コローの作品16点のほか、テオドール・ルソーの作品1点やフォンテーヌブローの森の入り口に建つミレーとコローの記念碑の写真と共に大きくて綺麗な印刷で二人の人生を楽しめます。
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