3分で分かるマネの人生

エドゥアール・マネは1832年、パリに生まれます。法務省の高官だったお父さんはマネにも自分と同じ道を進んで欲しいと願いましたが、マネは勉強が大嫌いでした。中学卒業後、人々に認められる立派な画家になることを条件にマネは絵の道に進ことを許されます。

絵の学校に6年間通ったあと、外国を旅して優れた絵を見ながら勉強を重ねしたが、マネの絵はなかなか認められません。中でも1863年、サロンに落選した絵を集めて行われた落選展にマネが出した「草の上の昼食」は不道徳で破廉恥だとして、激しい批判と中傷に晒されてしまいます。続いて発表した「オリンピア」でも物議を醸します。絵画は高貴であるべきだった時代に、社会の現実、しかも影の部分を描いたマネは人々の怒りを買ってしまったのです。

草の上の昼食

それでもマネは自分の絵に自信を持っていました。やがて、近代都市パリの「今」を新しい手法で描くマネの周りに、若くて進歩的な芸術家たちが集まり、パリのカフェで日夜議論を交わすようになります。

マネを尊敬していたモネ、モネと仲の良いルノワール、マネと同じ生粋のパリジャンで同じような階級出身のドガもいました。マネは歴史画家を目指していたドガに自分と同じように現代生活を描くようにアドバイスもしています。数少ない印象派の女性画家ベルト・モリゾもその一人です。モリゾをモデルとしたマネの作品「バルコニー」(1868年)はサロンに入賞しています。

やがて印象派展と呼ばれるようになる展覧会をモネ達が開催するとき、マネはそのグループのリーダー的な立場にありましたが、自身は出品していません。マネにとってはサロンこそが作品を世に問う場だったのでしょう。

マネの絵を褒める人たちの中には画家のエミール・ゾラもいました。ゾラはある雑誌にこう書いています。「マネもマネを褒める私も今は人から笑われているが、二人とも必ず勝つだろう。」

バルコニー

ゾラが言った通り、マネは少しづつ人々から認められるようになっていきました。ところが、その喜びも束の間、マネの左足が動かなくなります。病気による壊疽が進む中、力を振り絞って描いたのが「フォリー・ベルジェールの酒場」です。

この絵はサロンに出した最後の作品です。近代化するパリの現実を切り取ったマネの集大成と言って良い傑作です。残念なことにこの絵を描いた1年後、足の病気が治らずに苦しみながら亡くなってしまいます。51年というあまりにも短い一生でした。

マネとモネ

グループの中心的存在でありながら印象派展には一度も参加していないマネ。保守化したサロンの代わりに自分達でグループ展を開催することを決意し、参加者集めに奔走したモネ。
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